ニックネーム:hiroko
神戸市在住  A型 魚座  好きなこと: お寺めぐり、仏像、歴史もの、音楽などなど。
2009年02月21日(土)
豊國神社

大阪城公園内にある豊國神社(ほうこくじんじゃ)は、京都市の豊国神社(とよくにじんじゃ)の別社として明治の初めに創建されました。豊臣秀吉、秀頼、秀長を祭神とし、創建当初は中之島にありましたが、戦後、秀吉に縁のある大阪城内に移されました。
出世開運の神様として知られ、秀吉の馬印であった千成瓢箪のお守りとして売られいます。

大阪城のある場所は、もともと石山本願寺の跡で、大坂城を築いた豊臣秀吉の「秀」と石山の「石」を取って、秀石庭と名づけられた庭が豊國神社境内にあります。秀吉ゆかりの千成瓢箪の形を庭の地割模様とし、巨石を組み合わせた日本庭園で、大阪の発展は海に面したことが原動力となっていたことから、一木一草を用いずに海洋を表現しているそうです。

2009-02-21 17:40 | 記事へ | コメント(0) |
| 幕末〜明治以降 |
2009年02月14日(土)
大坂城
大阪のシンボル大坂城。
1583年、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に築城を始め、本丸、二の丸、三の丸のほか、のちには外郭を整備した大城郭で、本丸には五層八重の天守閣が建てられていました。


1615年の大坂夏の陣で大阪城は落城し、天守閣は炎上。城内の山里廓で豊臣秀頼、淀君は自刃し豊臣氏は滅亡しました。












徳川幕府によって再建された大坂城は、城郭の面積は5分の1になりましたが、石垣や天守閣の高さは豊臣時代のものを圧倒しました。

城の正門である大手門は防備を固めるため石塁で頑丈な桝形が築かれており、その石塁の上には大規模な多聞櫓(重文)が建っています。徳川幕府は大坂城再建の際、西国大名に対する備えを念頭にいれた城構えとしていました。

現在に残る大阪城の石垣はほとんど徳川幕府の再建以降のもので、石垣石には、大名の所有権を明示した刻印が打刻されています。城内には大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形、桜門などの遺構が残っており、国の重要文化財に指定されています。

天守閣は1665年、落雷で焼失し、以後は天主を持たない城でした。
1868年の 王政復古の大号令の後、前将軍徳川慶喜が大坂城に移りましたが、鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失しました。

1931年には市民からの寄付により、地上55mの大阪城天守閣が266年ぶりに再建され、現在に至っています。

 
2009-02-14 16:57 | 記事へ | コメント(2) |
| 戦国〜江戸時代 |
2009年02月07日(土)
新選組屯所
壬生村はかつての京都の洛中の西の端にあり、村の中心が壬生寺でした。




壬生寺北側にある壬生の郷士・八木邸は、幕末に新選組が宿所としたことで知られ、現在の建物は江戸時代後期に建てられたものです。
14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達のうち、京都に残った近藤勇を初め13名が京都守護職・松平容保(かたもり)の支配下に入り、新選組を名乗りました。新選組が八木邸を屯所としたのは、1863〜1865年の3年間で、組内の内部抗争で芹澤鴨が暗殺されたのもこの八木邸奥座敷です。






隊士が増えてからは、八木邸の東側にある前川邸も屯所となりました。新選組旗揚げ以前からの同志であった山南敬介が脱走により切腹させられたのはこの前川邸です。









四条大宮の光縁寺には山南敬介や新撰組隊士が
埋葬されています。
2009-02-07 17:34 | 記事へ | コメント(0) |
| 幕末〜明治以降 |
2009年02月01日(日)
壬生寺

京都市中京区の壬生寺は991年三井寺の僧快賢が創建し、1300年に円覚上人が、仏の教えを身振り動作に仕組んだ壬生大仏狂言を創始して栄えました。
境内には狂言舞台である大念仏堂(重文)があり、ここで演じられる壬生狂言、壬生六斎念仏踊りは重要無形民俗文化財に指定されています。

また、幕末には近くに新撰組屯所があったため、境内で新選組が兵法や大砲の訓練をしたり、相撲興行を催したり、壬生狂言を楽しんだといわれています。境内の壬生塚には近藤勇の胸像と遺髪塔、新選組隊士11名の墓があります。


2009-02-01 13:26 | 記事へ | コメント(0) |
2009年01月24日(土)
興聖寺

宇治川を挟んで平等院の向い側、仏徳山を背にして建つ興聖寺は、1233年に曹洞宗の開祖・道元禅師が、中国・宋から帰国後に京都・伏見深草に開いた寺院です。道元はここで10年間過ごし「正法眼蔵」などの著作に取り組み、その後、越前国に開いた永平寺へ移りました。

応仁の乱で焼失した後廃絶していましたが、1649年、当時の淀城主、永井尚政によって再興されました。本堂は伏見城の遺構と伝えられ、本堂奥の天竺殿に祀られる聖観世音菩薩像は宇治十帖の手習の杜に祀られていたことから「手習観音」と呼ばれています。

龍宮造りの山門を入ると本堂(法堂)、僧堂、開山堂、大書院、方丈、などが並び、諸堂の前には庭園が広がり、禅寺らしい静かなお寺です。

総門から山門まで約200mの参道は琴坂と呼ばれ、紅葉の名所として知られています。



2009-01-24 13:47 | 記事へ | コメント(2) |
| 鎌倉〜室町時代 |
2009年01月17日(土)
橋合戦

宇治橋は646年に架けられた、日本最古の橋と言われています。
宇治川と宇治橋は古くからさまざまな物語や合戦の舞台となってきました。
「源氏物語」宇治十帖の舞台であり、「平家物語」では源頼政が、平家と戦った「橋合戦」の舞台とされています。

平家への不満が高まる中で、源頼政は以仁王と結んで平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に王の令旨を伝えました。以仁王と頼政はこの戦いに敗れましたが、「橋合戦」が源氏勃興の契機となり、この5年後に平家は滅亡しました。

橋合戦で敗れた頼政は、

  埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 哀れなりける

の歌を残して平等院境内で自刃しました。

境内には 頼政が「平等院の浄域を血で汚してはならない」と軍扇を敷いて自刃した跡が「扇の芝」として残され、鳳凰堂西側の塔頭・最勝院には頼政の墓がたてられています。


2009-01-17 13:28 | 記事へ | コメント(0) |
| 奈良〜平安時代 / 平家物語とその周辺 / 源氏物語 |
2009年01月10日(土)
平等院

関白・藤原頼通が、父・道長から譲り受けた別荘「宇治殿」を1052年に寺に改めたのが宇治の平等院です。

鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂(国宝)は、開創の翌年に建立され、本尊・阿弥陀如来座像(国宝)が安置されました。

鳳凰堂は、中堂を中心に左右に翼廊をもつ優美な姿で、幻の鳥、鳳凰が翼を広げたようなところから、鳳凰堂と呼ばれるようになり、その姿は前面の阿字池に美しく映ります。
中堂の本尊、阿弥陀如来は平安時代の名仏師、定朝の作です。壁面には阿弥陀如来座像を囲むように、飛雲に乗り楽器を奏でたり舞を舞う52体の雲中供養菩薩(国宝)がかけられています。
また、堂内の扉と壁面には、極楽浄土から雲に乗って来迎する阿弥陀如来と菩薩の姿が、九品来迎図(国宝)として描かれています。

平安中期から末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行しました。平等院は当時の極楽浄土への思いを現在に伝えています。

境内には鳳翔館(平等院ミュージアム)があり、雲中供養菩薩の一部や日本三名鐘の一つである梵鐘(国宝)、屋根に飾られた鳳凰の実物が展示されています。鳳翔館は、周囲の景観に配慮し、発掘調査や庭園整備など平等院全体の修復・復元計画の一環として造られ、2001年に開館しました。
2009-01-10 17:17 | 記事へ | コメント(6) |
| 国宝めぐり / 奈良〜平安時代 |
2009年01月03日(土)
兵庫津の道


大輪田の泊は、奈良時代に行基が築いたとされる五泊のひとつで、平清盛が改修して宋との貿易で栄えました。
平家滅亡後は東大寺再建に当たった重源が中断していた工事を再興し、兵庫港として完成させて、国内第一の港「兵庫津」と呼ばれました。
また、江戸時代には西廻り航路における国内航路の要津として栄えました。

「兵庫津の道」は、JR兵庫駅から和田岬へ至る散策路で、能福寺清盛塚、兵庫運河、薬仙寺(萱の御所)、和田神社など多くの史跡が点在しています。

2009-01-03 11:55 | 記事へ | コメント(0) |
2008年12月31日(水)
温泉寺
城崎の温泉街の西、大師山中腹にある温泉寺は、城崎温泉を開いた道智上人が養老年間に創建したと伝えられています。本尊は十一面観音菩薩で、眼下にある城崎温泉郷の守護寺となっています。

本堂(重文)は室町時代初期に建立され、和様、唐様、天竺様の三様式が融和した折衷様式の入母屋造りで、但馬地方最古の木造建造物です。
本堂裏の小高いところには南北朝時代の様式を踏襲した多宝塔(江戸時代に再建)があります。















山麓には山門と薬師堂があり、ともに江戸時代に再建されたものですが、薬師堂は総欅造り四方縁勾欄付の豪華な建物で、山門の左右の金剛力士像は、運慶・湛慶作といわれる力作です。


2008-12-31 13:09 | 記事へ | コメント(0) |
| 鎌倉〜室町時代 |
2008年12月28日(日)
城崎温泉

城崎温泉は飛鳥時代に、コウノトリが温泉で足の傷を癒しているのを見て発見されたという伝説がありますが、 717年に道智上人が温泉を開いたと伝えられています。




 江戸時代には『海内第一泉(かいだいだいいち
 せん)』と呼ばれ、近郊の藩主や藩士が多数
 訪れにぎわいました。
 明治以後も文人墨客に愛され、『城の崎にて』
 を書いた志賀直哉をはじめ、有島武郎、島崎
 藤村や与謝野鉄幹・晶子など多数の文豪が来訪
 しています。








 温泉街は大谿(おおたに)川の両側1kmに
 温泉旅館、土産物店、飲食店が並び、川沿いの
 柳並木、川にかかる橋、格子造りの旅館など、
 落ち着いた雰囲気があり、湯の町の情緒が感じ
 られます。











城崎温泉には道智上人が開いた「まんだらの湯」のほかに「御所の湯」「一の湯」「柳湯」「地蔵湯」「鴻の湯」「さとの湯」と呼ばれる7つの外湯があり、それぞれ異なった趣で、外湯巡りを楽しめます。


2008-12-28 12:51 | 記事へ | コメント(0) |
2008年12月13日(土)
浄土寺

1180年の平重衡の南都焼き討ちで焼失した東大寺再興の大勧進職を務めたのが重源でした。重源は大仏再興事業の拠点として、日本の7か所に東大寺の「別所」を造り、そのうちの「播磨別所」が浄土寺(兵庫県小野市)です。当時このあたりは東大寺の荘園で、東大寺の経済的拠点として重要な地域でした。

浄土寺の境内には、池を中心にして西に創建当時から残る浄土堂(阿弥陀堂)、東に室町時代に再建された薬師堂(本堂)が建ちます。


重源は、各地の別所寺院の建築に中国(宋)の最新式の建築様式(天竺様または大仏様と呼ばれる)を採用しました。浄土堂(国宝)は創建当時から1957年の解体修理時まで一度も手が入れられずそのままの姿を伝え、東大寺南大門と並んで、わが国の純粋な天竺様式の建築を代表する建物として貴重な存在です。

浄土堂内の円形の須弥壇には、高さ5.3mの阿弥陀如来立像(国宝)と脇侍の高さ3.7mの観音菩薩、勢至菩薩立像が安置されています。いずれも仏師快慶の作で、阿弥陀如来像の若々しい表情や鋭い眼差しは中国・宋風の影響を受けていると言われています。

この阿弥陀三尊像は東向きに安置され、背後の蔀戸から夕陽がさし込むと、阿弥陀仏が西方の極楽浄土から雲に乗って来迎するように見え、浄土思想を演出する見事な建築といえます。
2008-12-13 20:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 国宝めぐり / 鎌倉〜室町時代 |
2008年12月07日(日)
如意寺

神戸市西区の高層住宅が並ぶニュータウンから丘一つ超えたところに如意寺というお寺があります。兵庫県南部一帯にはインドから来た法道仙人開基という伝説を持つ寺院が点在していますが、如意寺もその一つです。

実際には比叡山東塔の末寺として平安時代後期頃に創建され、中世には寺坊24を数える大寺院として栄たといわれています。

現在は本堂は礎石が残るだけですが、本堂跡の東に三重塔、西に阿弥陀堂、これらの手前に文殊堂がある天台式伽藍配置(3棟とも重要文化財)で、保存状態もよく、中世の面影を残しています。


2008-12-07 15:34 | 記事へ | コメント(2) |
| 鎌倉〜室町時代 |
2008年12月03日(水)
六波羅蜜寺

醍醐天皇の皇子とも言われる空也は、京の町を念仏を唱えて歩き、民衆の救済に努めて「市の聖」と慕われました。951年、都に悪疫が流行した時には、十一面観音像を刻み、この観音像を本尊として開いた西光寺が後に六波羅蜜寺となりました。

このあたりは、平家全盛の時代には一門の邸宅が建ち並び、平氏六波羅第と呼ばれました。その後、六波羅蜜寺は度重なる戦乱の兵火で焼失し、現在の本堂は南北朝時代に再建されものです。

本堂裏の宝物収蔵庫には口から六体の阿弥陀仏が出ている有名な空也上人像や、地蔵菩薩立像、平清盛像、運慶坐像、湛慶坐像など、平安・鎌倉時代の彫刻が多数保存されています。

空也作と伝えられる十一面観音像(国宝)は、12年に1回開帳される秘仏ですが、この秋、特別開帳されました。
2008-12-03 20:47 | 記事へ |
| 国宝めぐり / 奈良〜平安時代 |
2008年11月30日(日)
六道の辻














建仁寺の南のあたりは、かつて死者を鳥辺野へ葬送する際の野辺送りの場所で、六道の辻と呼ばれており、この世とあの世の境と言われ、肉親との別れの場所でした。

六道珍皇寺の門前と、少し西にある西副寺前に「六道の辻」の石標が建っています。

六道珍皇寺は現在は建仁寺の塔頭のひとつになっていますが、境内の閻魔堂には小野篁作と伝わる閻魔大王像と等身大の像が安置されています。小野篁は平安前期の官僚で、漢詩人でもありましたが、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説がありました。
2008-11-30 14:20 | 記事へ | コメント(0) |
| 奈良〜平安時代 |
2008年11月25日(火)
建仁寺


















臨済宗建仁寺派の大本山建仁寺は京都五山のひとつで日本最古の禅寺です。1202年、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の帰依を受け、頼家を開基、栄西禅師を開山として建立されました
。応仁の乱の戦火などで焼失しましたが、1586年ごろ、安国寺恵瓊により再興され、五山第3位の格式を持ちました。その後もたびたび火災にあっており、現在は創建当時の建物は残っていません。

境内の伽藍は中国の百丈山を模して建立され、勅使門、三門、法堂、方丈は一直線に並ぶ禅宗寺院の典型的な形式となっています。

多くの美術品を所蔵していますが、最も有名なものは桃山〜江戸時代初期の画家・俵屋宗達の「風神雷神図」(国宝)で、真作は京都国立博物館に寄託されています。
2008-11-25 20:53 | 記事へ | コメント(4) |
| 鎌倉〜室町時代 |
2008年11月22日(土)
六角堂


587年、聖徳太子を開基として創建されたと伝えられている六角堂は、正式名称は紫雲山頂法寺といい、京の町では「六角さん」と呼ばれ親しまれてきました。
本堂は、上から見ると正六角形で、この形から六角堂と呼ばれ、現在の建物は1877年に再建されたものです。

本堂の前には六角形の「へそ石」があり、ここが京都の中心と言われています。

六角堂頂法寺は生け花発祥の地で、応仁の乱の後に池坊専応が芸術としての生け花を成立させ、江戸時代に今日の形に定着しました。





 

      
2008-11-22 17:03 | 記事へ | コメント(2) |
| 古代 |
2008年11月15日(土)
羅城門


現在の千本通と九条通との交差点のあたりは、平安京の昔、都の正面として羅城門が建てられていました。門は二層からなり、瓦ぶき、屋上の棟には鴟尾が金色に輝いていたといわれています。

平安中期以降、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生みました。今は礎石もなく、標石だけが建てられています。

羅城門の楼上には、外敵の侵入から平安京を守る役目を果たしていたという兜跋毘沙門天像が安置されていました。兜跋毘沙門天像は西域の雰囲気を伝える像で、唐で作られ日本に伝わったといわれますが、980年羅城門が倒壊したとき、瓦礫の中から掘りだされ、東寺に運ばれたといわれています。現在は東寺の宝物館に安置され(国宝)、春と秋に公開されています。




羅城門を守護する東西の位置に東寺、西寺が置かれていました。東寺は現代まで残っていますが、西寺は東寺と同規模の伽藍を持っていたものの、990年の大火をはじめ火災が相次ぎ焼滅しました。現在は金堂礎石の一部が残るのみです。
2008-11-15 15:20 | 記事へ | コメント(0) |
| 奈良〜平安時代 |
2008年11月08日(土)
東寺観智院

東寺観智院は、東寺の教学の場として鎌倉時代に後宇多天皇の発願により建立された、東寺の中で最も格式が高い塔頭です。本尊の五大虚空蔵菩薩(五種類の鳥獣に乗った五体の虚空蔵菩薩)は、空海の孫弟子にあたる恵運が唐から請来した像で、山科安祥寺にあったものを観智院に虚空蔵堂を建立して安置したといわれています。

観智院金剛聖教をはじめ、所蔵する密教聖教の量と質は日本最高で、そのほとんどは、現在東寺宝物館に収蔵されています。

客殿(国宝)は桃山時代の書院造りで北政所が寄進した建物で、客殿を中心に本堂・書院・金剛蔵・宝蔵・勅使門などいずれも江戸時代の建築です。
床の間には宮本武蔵筆と二羽の鷲、襖には竹林の図が描かれています。

客殿前の庭は「五大の庭」といい、手前の石組みは弘法大師が中国から海上を帰国する姿を表し、奥の石組みは、五大虚空蔵菩薩像の姿を表している枯山水式庭園です。


2008-11-08 20:45 | 記事へ | コメント(0) |
| 国宝めぐり / 鎌倉〜室町時代 |
2008年10月31日(金)
鶴林寺

播磨の法隆寺と呼ばれる鶴林寺は589年、聖徳太子によって創建されたと伝えられています。

1112年建立の太子堂(国宝)をはじめ、建物、仏像、画像、工芸品など数多くの文化財を所蔵しています。太子堂内の壁画は、赤外線撮影により超一級壁画の「九品(くほん)来迎図」や「釈迦涅槃図」が描かれていることがわかりました。

宝物館に納められている金銅聖観音立像は、微笑みを浮かべ、少し腰をひねった姿で、小柄ながら美しい像で、五木寛之氏も絶賛の白鳳時代の名作です。
                   

                     (修理中の太子堂)
2008-10-31 21:13 | 記事へ | コメント(3) |
| 国宝めぐり / 古代 |
2008年10月23日(木)
四天王寺

大阪の四天王寺は、593年に聖徳太子が建立したわが国で初めての官寺で、飛鳥寺と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。

建立当時の四天王寺は大阪湾が内陸まで入り込んでいた難波津の丘陵地帯にありました。難波津は、瀬戸内海を通って中国、朝鮮を結ぶ海上ルートの要衝として軍事、外交上で重要な位置を占め、大陸の文化の入口ともなっていました。四天王寺は外国からの使節や渡来者に対する国威を示すものでもありました。


四天王寺は中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が南北に一直線に並び、中門と講堂を結ぶ回廊が五重塔と金堂を囲む形式で、四天王寺式伽藍配置と呼ばれています。

法隆寺が飛鳥・奈良時代の建築、彫刻や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺はたび重なる災害のため、古い建物はことごとく失われ、現在、寺の中心的な建物はほとんど戦後に再建されたものです。

中心伽藍の背後にある石舞台は、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台とともに「日本三舞台」の一つです。
2008-10-23 18:30 | 記事へ | コメント(4) |
| 古代 |
2008年10月16日(木)
夢殿

法隆寺の東院伽藍は、聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された建物群で、回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、礼堂、絵殿、舎利殿などが回廊で繋がっています。
739年、行信僧都が、聖徳太子の遺徳を偲んで建てたと言われています。

夢殿の中央には聖徳太子の等身像とされる国宝「救世観音像」が安置されています。何世紀もの間秘仏とされていましたが、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて像を包んでいた白布を取り除き、広く世に知られるようになりました。



2008-10-16 20:09 | 記事へ | コメント(0) |
| 国宝めぐり / 古代 |
2008年10月12日(日)
法隆寺
法隆寺、は1993年12月に日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録された、世界的な仏教文化の宝庫です。

推古天皇と聖徳太子が607年に寺とその本尊「薬師如来」を造ったのが法隆寺(斑鳩寺)であると伝えられており、670年に一度火災にあいましたがすぐに再建され、飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築です。

           

現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ約187,000uの境内に多数の寺宝を持ち、国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2,300余点に及んでいます。


西院伽藍には金堂、五重塔、大講堂、回廊、経蔵、鐘楼、中門、聖霊院、網封蔵、西円堂、南大門、東大門などの国宝建造物が並びます。正面に講堂、左右に金堂と五重塔を配し,廻りを回廊で囲む伽藍配置は,「法隆寺式」と呼ばれ、安定感を重視した配置です。


また、金堂には623年に止利仏師により造られたという釈迦三尊像,五重塔初層には釈迦の涅槃像土など東南西北の四面に様々な塑像、大宝蔵殿の百済観音像や夢違観音像など、多数の国宝仏があります。中でも百済観音像は、日本の仏像には珍しい八頭身のすらりとした姿を持つ美しい仏像です。
2008-10-12 14:50 | 記事へ | コメント(4) |
| 国宝めぐり / 古代 |
2008年10月08日(水)
法輪寺

法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔といわれる法輪寺の三重塔は、昭和19年雷火で焼け、その後昭和50年に飛鳥様式で再建されたものです。焼失前の塔は7世紀末頃の建立と推定される貴重な三重塔でした。

法輪寺は622年に聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)が太子の病気平癒を祈って建てたといわれています。創建当時は東に金堂、西に塔が建つ、法隆寺式の伽藍配置で、法隆寺西院伽藍の2/3の規模を持ち、瓦の文様も法隆寺によく似た模様であったといわれています。





2008-10-08 21:16 | 記事へ | コメント(2) |
| 古代 |
2008年10月04日(土)
法起寺

わが国最古で最大の三重塔のある法起寺は、「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として1993年に世界遺産に登録されました。

法起寺は606年に聖徳太子が法華経を講説したという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、太子が建立した七ヶ寺の一つに数えられています。
高さ約23メートルの国宝の三重塔は706年に完成し、その後修復されていますが、飛鳥時代の様式をよく伝えています。
塔と金堂の位置は法隆寺とは逆になっており、法起寺式伽藍配置と呼ばれています。

寺は室町時代に衰えましたが、江戸時代に旧講堂跡に本堂、旧金堂跡に聖天堂が建立され、現在の寺観が整えられました
本尊の十一面観音菩薩立像(重文)は、10世紀後半ごろの作といわれ、現在は収蔵庫に安置されています。

          
2008-10-04 13:54 | 記事へ | コメント(0) |
| 国宝めぐり / 古代 |
2008年09月29日(月)
二尊院


嵯峨野の二尊院は、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、この名で呼ばれていますが、正式には「小倉山二尊院華台寺(けだいじ)」といいます。創建は平安初期と伝えられています。

総門は角倉了以が伏見城の薬医門を移築したもので、総門からの玉砂利の長い参道は“紅葉の馬場”といわれ、秋には紅葉が美しい道です。
本堂は京都御所の紫宸殿を模して造られていて、床はうぐいす張りとなっています。

境内には楓樹が多く、本堂の後の山は、百人一首の

  小倉山峯のもみじ葉心あらば 今一度の御幸またなん  藤原忠平

の歌で名高い小倉山で、昔から紅葉の名所として知られています。
藤原定家が百人一首を編んだ時雨亭は、この小倉山の山腹にあったと言われています。


2008-09-29 20:48 | 記事へ | コメント(0) |
| 奈良〜平安時代 |
2008年09月22日(月)
野宮神社

竹林が続く嵯峨野の散策路の中に野宮(ののみや)神社があります。野宮は、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が、身を清める潔斎のため1年間籠もった神社で、樹皮が付いたままの黒木の鳥居や柴を束ねた小柴垣に囲まれた聖地でした。源氏物語「賢木の巻」では、光源氏が野宮に六条御息所を訪ねる場面が美しく描かれています。

六条御息所は前東宮の未亡人で、源氏の最初の恋人でした。美しく教養深く、誇り高い御息所は、源氏への愛に悩み苦しみ、生き霊になり、ついには怨霊となってしまいます。そして源氏との仲に絶望し、娘の斎宮とともに伊勢へ下向することを決意します。出発間近い秋、源氏は野宮に籠る御息所を訪れて別れを惜しみます。

   暁の別れはいつも露けきを こは世にしらぬ秋の空かな  

   おほかたの秋の別れもかなしきに 鳴く音な添えそ野辺の松虫


   
2008-09-22 21:06 | 記事へ | コメント(0) |
| 源氏物語 / 奈良〜平安時代 |
2008年09月17日(水)
清涼寺

嵯峨釈迦堂の名で親しまれている清涼寺は、嵯峨天皇の皇子・源融の山荘・棲霞観(せいかかん)がその前身です。源融の没後、遺族が御堂を建立して棲霞寺としたのが現在の阿弥陀堂で、今は清涼寺に吸収されて堂のひとつとなっています。

阿弥陀堂の奥の霊宝館に安置されている阿弥陀如来は、旧棲霞寺阿弥陀堂の創建当初からの本尊で、面長で端正な顔立ちは源融に似せて造られたとも言われています。源融は源氏物語の光源氏のモデルとされていることから、「光源氏の写し顔」との伝説もあります。藤原時代初期の作で両脇侍像の観音菩薩,勢至菩薩とともに国宝に指定されています。


 清涼寺は987年、中国・宋から帰国した奈良・東大寺の僧「然〔ちょうねん〕が建立を計画し、中国で模刻した釈迦如来像を安置しようとしましたが、その完成を見ずして没したため、弟子の盛算がその遺志を継いで釈迦堂を建立して清涼寺と称しました。

本堂内の本尊・釈迦如来像(国宝)は日本三釈迦如来像のひとつで、インド〜中国〜日本の三国伝来の仏像と言われています。インドで作られ中国に伝わって安置されていた釈迦如来像を、「然が中国の仏師に模刻を依頼し、完成した像を日本に持ち帰りました。模刻した時に中国の尼僧たちによって、胎内に絹製の五臓六腑(国宝)が納められていました。
この釈迦如来像は清涼寺式と呼ばれ、この像をモデルに多くの釈迦如来像が造仏され、わが国の仏像製作に大きな影響を与えました。

2008-09-17 21:07 | 記事へ | コメント(2) |
| 国宝めぐり / 源氏物語 / 奈良〜平安時代 |
2008年09月13日(土)
千本釈迦堂(大報恩寺)
数多い京都の寺院は、創建は古い時代であってもほとんどが「応仁の乱」で堂宇を焼失し、近世以降に再建されています。幾多の戦禍を奇跡的に逃れ、京都市街に現存する最古の寺院が大報恩寺、通称千本釈迦堂の本堂(国宝)です。
1227年、義空上人によって創建されたと伝えられており、本堂は檜皮葺き、和風の寝殿造りです。


本堂の西にある霊宝館は、鎌倉時代の仏師快慶作の十大弟子像や定慶作の六観音像など多くの寺宝が展示されています。

応仁の乱の戦場では、この寺が山名宗全を総大将とする西軍の陣となりました。 そのためこのあたりは西陣と呼ばれてきました。

また、境内のおかめ塚は本堂建立にあたった大工棟梁の妻、阿亀(おかめ)内助の功をしのぶ遺跡で、本堂内には「おかめ人形」も置かれています。

    
2008-09-13 17:36 | 記事へ | コメント(0) |
| 鎌倉〜室町時代 / 国宝めぐり |
2008年09月07日(日)
石像寺


京都西陣の古い家並の中に建つ石像寺は釘抜き地蔵の名で親しまれています。

この地蔵尊が夢の中で釘を抜き、苦しみを取り除いたという伝説があり、そこから苦抜き、釘抜き地蔵と呼ばれるようになりました。本堂の外壁には、釘抜きを貼り付けた珍しい絵馬がびっしり奉納されています。

石像寺は、819年に弘法大師空海が開基したと伝えられ、地蔵堂には大師が自ら刻んだとされる石造の地蔵菩薩が安置されています。また、地蔵堂の奥には、1225年に開眼された、花崗岩の石像阿弥陀三尊像が安置されています。



2008-09-07 15:39 | 記事へ | コメント(0) |
| 奈良〜平安時代 |
2008年09月03日(水)
渡岸寺観音堂

国宝の十一面観音像は全国に七体あり、その一つが、北近江の渡岸寺観音堂(向源寺)にあります。この十一面観音立像は、かつて736年に創建された光眼寺にありましたが、光眼寺は1570年に織田信長が浅井氏を攻めた折、堂宇を焼失しました。十一面観音は信仰篤い村の人々の手で土中に埋められ、災禍を逃れたと伝えられ、その埋伏地は、境内に残っています。

現在は向源寺の飛び地にある渡岸寺観音堂の収蔵庫に安置され、フロアの真ん中に置かれているため、前後左右から真近に見ることが出来ます。

この十一面観音立像は平安時代初期の作と見られ、檜の一本造で、頭上に如来ではなく菩薩面をのせ、耳トウ(じとう)と呼ばれる耳飾りをつけるなどの特徴があります。194cmの均整のとれた、軽く腰をひねった姿は、官能的かつ神秘的です。穏やかな表情と優美な立ち姿の像は観音信仰の象徴であるだけでなく、芸術作品としても最高傑作といわれています。


2008-09-03 20:38 | 記事へ | コメント(0) |
| 奈良〜平安時代 / 国宝めぐり |
2008年08月30日(土)
黒壁スクエア

長浜市の中心地に1900年に建てられた第百三十銀行長浜支店の和洋折衷の建物は、壁が黒く塗られていたので「黒壁銀行」と呼ばれていました。この黒壁の建物が1989年「黒壁ガラス館」として再生されました。その後、「黒壁ガラス館」を中心に、北国街道沿いの古い商家などをレストラン、ギャラリー、土産物店などにした黒壁スクエアと呼ばれるゾーンが誕生しました。



今も北国街道沿いには江戸時代の町家が残り、町並みには繁栄した当時の面影がしのばれ、落ち着いた雰囲気が感じられます。この町並みを生かした黒壁スクエアは今年で20周年を迎えました。

2008-08-30 15:05 | 記事へ | コメント(0) |
| 幕末〜明治以降 |
2008年08月28日(木)
舎那院

長浜八幡宮の隣にある舎那院は、平安時代前期、弘法大師空海によって開山され、源義家が東夷征伐の際(前九年の役)、ここで戦勝祈願を行ったといわれています。 
その後、戦火のために焼失しましたが、豊臣秀吉により再建されました。明治維新の神仏分離までは、八幡宮の別当(神宮寺)とされていました。



芙蓉の寺としても知られており、8月初旬から9月にかけて境内一面に芙蓉の花が咲きます。
2008-08-28 21:28 | 記事へ | コメント(0) |
| 奈良〜平安時代 |
2008年08月24日(日)
長浜八幡宮


滋賀県長浜市にある長浜八幡宮は、平安後期、源義家からの発願をうけた後三条天皇の勅により、京都石清水八幡宮から神霊を移して祀ったことに始まります。多くの武将の庇護を受け、安土桃山時代には豊臣秀吉によって、社殿の修復がなされました。

毎年4月14日〜16日に行われる長浜曳山まつりは、国の重要無形民族文化財に指定されています。

           をりをりに 伊吹を見てや 冬籠

境内には芭蕉の句碑があり、ここから見える雪の伊吹山はとても美しいとのことです。

2008-08-24 13:17 | 記事へ | コメント(0) |
| 戦国〜江戸時代 |
2008年08月19日(火)
酢屋


京都の高瀬川沿いは、幕末に勤皇の志士たちが多く潜居したところで、幾度となく新撰組など幕府側との争いがありました。三条あたりには志士たちの寓居跡碑や遭難碑などの石碑がたくさん見られます。新撰組が志士を襲撃した池田屋騒動の地や、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われた河原町蛸薬師の醤油業・近江屋跡も今は石碑のみで、当時の面影は見当たりません。



三条通と四条通の中間あたりにある土佐稲荷・岬神社は、龍馬をはじめ幕末の志士が参拝したといわれています。

また、神社の少し北にある酢屋(すや)は、江戸時代は土佐藩出入りの材木商で、坂本龍馬はこの酢屋に身を寄せ、海援隊の京都本部にもなっていました。六代目酢屋嘉兵衛は龍馬の活動に大変理解を示し、援助に力を注ぎました。現在の十代目は別の場所で材木商を続け、酢屋の建物は改修されているものの当時のまま残されています。

2008-08-19 15:54 | 記事へ | コメント(0) |
| 幕末〜明治以降 |
2008年08月15日(金)
寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は、度々維新史の舞台となったところです。


1862年4月,薩摩藩急進派有馬新七らが寺田屋に集まったところを薩摩藩(公武合体派)によって襲撃を受け、有馬以下9名が斬殺されたのが寺田屋騒動です。この9名は薩藩九烈士といわれ維新史幕明けの事件とされています。

また、1866年1月には寺田屋を定宿にしていた坂本龍馬が幕府方に襲われましたが,寺田屋の養女・おりょうの機転で難を逃れました。おりょうは後に龍馬の妻となりました。

寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものですが、龍馬が滞在した部屋など、当時の面影を伝えています。


2008-08-15 22:05 | 記事へ | コメント(2) |
| 幕末〜明治以降 |
2008年08月11日(月)
長建寺

伏見・中書島に、竜宮造りの山門と深紅色の土塀の長建寺というお寺があります。
伏見奉行・建部内匠頭が元禄の頃に中書島を開拓するにあたって、旧伏見城内の即成院の塔頭・多門院を現在地に移して建立しました。弁財天を本尊とする珍しいお寺で、「島の弁天さん」と呼ばれています。


長建寺の前を流れる河の向かいには大倉酒蔵(記念館)の建物があり、この界隈は酒蔵の町の雰囲気が感じられます。
伏見は良質の地下水に恵まれ,昔から酒造りが盛んで、兵庫県の灘と並ぶ二大銘酒処として知られています。



伏見の町は豊臣秀吉によって城下町、港町として開かれました。江戸時代には大阪から船で伏見に着き、陸路京へ向かう旅人で賑わい、また、伏見の酒、米、人を大坂に運ぶための十石舟や三十石舟が宇治川派流から宇治川、淀川を航行していました。
2008-08-11 21:15 | 記事へ | コメント(4) |
| 戦国〜江戸時代 |
2008年08月02日(土)
御香宮神社

京都市伏見区の御香宮神社は、平安初期に境内から病気に効く香水がわき出て、清和天皇からこの名を賜ったといわれています。この「御香水」は現在も湧き出て、名水百選に認定されています。伏見の地場産業である酒造りとも関連が深く、境内には伏見の酒の酒樽が並んでいます。

現在の本殿は1605年に、拝殿は1625年に建てられ、極彩色の彫刻が桃山期の特色を伝えています。また表門は伏見城の大手門を移築したものです。



書院の庭は、小堀遠州が伏見奉行所内に作った石庭を移築したものです。


1868年に起こった鳥羽伏見の戦いでは官軍(薩摩藩)の本営となり、南側200mほど離れた伏見奉行所に陣を張った幕府軍との激しい戦いがありました。
2008-08-02 19:23 | 記事へ | コメント(0) |
| 戦国〜江戸時代 |
2008年07月26日(土)
神戸八社


神戸には一宮から八宮まで数字のつく神社があります。これらの八つの神社は生田神社を囲むように点在していて、生田神社の裔神をまつっています。




一宮、二宮、三宮は三宮駅周辺にあり、三宮神社は明治維新直後に起こった神戸事件の舞台になったところです。四宮は兵庫県庁近くに、五宮と七宮は兵庫区に、八宮(六宮を合祀)は湊川神社近くにあり、それぞれの神社を中心に集落が形成されていました。
現在も二宮町、三宮町、五宮町など町名にもなっています。

全国に9万近くある神社の中で一から八まで数詞を冠した神社が同一市内にあるのは神戸市だけだそうです。

2008-07-26 20:05 | 記事へ | コメント(0) |
2008年07月20日(日)
蚕の社

古代、嵯峨野一帯は朝鮮半島から渡来した秦氏の本拠地で、養蚕、機織の技術を持った秦氏は、朝廷との
関係を強めて勢力を増大していきました。織物の神を祀り、「蚕の社」と呼ばれる木嶋神社は秦氏が
創建したと言われています。


境内に清水の湧き出る「元糺(もとただす)の池」があり、
その池の中に立つ石の三柱鳥居は、三方から拝める珍しい形
の鳥居で、京都の三つの珍鳥居の一つとされています。
2008-07-20 13:08 | 記事へ | コメント(2) |
| 古代 |
2008年07月11日(金)
妙心寺

退蔵院を初め、40余りの塔頭寺院が並ぶ広い寺域を持つ妙心寺は、全国に3500の末寺子院を持つ臨済宗妙心寺派の大本山です。南北朝の動乱期の1337年、禅宗に深く帰依した花園天皇が、離宮を禅寺に改めたのがはじまりとされています。

妙心寺は丹塗りの三門、仏殿、法堂が一直線上に並ぶ、禅宗特有の伽藍配置で、奥に大庫裏、大方丈、仏殿の東に経蔵、南に浴室(明智光秀追善のため建てられたため「明智風呂」と呼ばれる)が建ち、境内の通路はすべて花崗岩の石畳で連なっています。

2008-07-11 21:10 | 記事へ | コメント(4) |
| 鎌倉〜室町時代 |
2008年07月05日(土)
退蔵院

水墨画「瓢鮎図(ひょうねんず)」で有名な退蔵院は、京都花園にある妙心寺の塔頭寺院のひとつです。
瓢鮎図はつるつるした瓢箪(ひょうたん)で、ぬるぬるしてつかまえにくいナマズを捕らえることができるか、と問う禅の公案を、室町幕府4代将軍・足利義持が画僧・如拙に描かせたもので、国宝に指定されていますが、現在、本物は国立京都博物館に寄託されています。

退蔵院は1404年創建の古刹で、史跡、名勝に指定されている「元信の庭」と新庭の余香苑の趣の異なる2つの庭園があります。
「元信の庭」は室町時代の画家・狩野元信が作った枯山水の庭で、水墨画的な庭と言われています。


余香苑は昭和になってから作られ、緑と花々、水の流れが美しい日本庭園で、庭園の中央には水琴窟がつくられています。「水琴窟」は江戸時代に庭師が考案したといわれ、「つくばい」の下深く底を穿った瓶を伏せ込み、手水に使われた水が瓶に反響して琴の音のような音を聞くことができるというもので、水琴の残響に風情が感じられます。


2008-07-05 16:51 | 記事へ | コメント(2) |
| 鎌倉〜室町時代 |
2008年06月29日(日)
姫路市立美術館

姫路城の北側に広がる姫山公園に赤レンガ造りの姫路市立美術館が建っています。
この美術館は、戦前は陸軍の被服庫として、終戦後は30年以上、市役所として利用されてきた趣のある建物で、クラシックな外観と白いお城が美しいコントラストを見せています。


2008-06-29 17:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 幕末〜明治以降 |
2008年06月25日(水)
姫路城西の丸
           (大天守から見る西の丸)


姫路城西の丸は、徳川2代将軍秀忠の娘であった千姫が、再婚後に住んだところです。

千姫は祖母お市の方(織田信長の妹)の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君だったそうです。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎましたが、19歳の時、大坂夏の陣で大坂城は落城、秀頼とその母の淀君(千姫には伯母にあたる)は自害して豊臣家は滅亡しました。

千姫は落城寸前に脱出し、江戸へ向かう途中、桑名城主忠政の子・本多忠刻と出会い再婚しました。そして忠政が播磨へ国替えになり忠刻とともに姫路城に入りました。

 しかし、夫と長男を相次いで亡くしたため、10年近くを過ごした城を去って江戸に帰りました。その後出家して天樹院と号し、以後40年を江戸で過ごし、生涯を終えました。

 
西の丸には渡櫓とこれを結ぶ長局(ながつぼね)、そして、北端に位置する化粧櫓のみが現在まで残っています。長局(百間廊下と呼ばれる)は、御殿を囲むように造られた300mもの廊下に並ぶ部屋で、千姫に仕えた侍女たちが住みました。
化粧櫓は千姫が本多忠刻に嫁いだとき持参した化粧料10万石で建てられ、千姫が毎朝百間廊下から男山千姫天満宮(千姫が、本多家の繁栄を願って建立しました)を拝んだ後、休憩したと伝えられます。

2008-06-25 22:23 | 記事へ | コメント(0) |
| 戦国〜江戸時代 |
2008年06月20日(金)
姫路城

世界遺産 姫路城。
南北朝の時代に播磨国の守護職だった赤松則村(円心)が姫山に砦を構えたのが姫路城の始まりとされています。
戦国時代になって中国地方平定に向かった羽柴秀吉が、三木城を落としてこの城に入り、中国地方攻略の拠点として三層の天守閣を築きました。その後関ヶ原の戦で戦功のあった池田輝政が姫路52万石の領主に封じられ、1601年から8年かけて城の大修築工事を行い、現在に伝えられている大城郭を完成させました。

白鷺城と呼ばれ壮麗な美しさを誇る姫路城ですが、幕府の西国大名に対する軍事的な役割があり、堅固な備えを持っていました。


















白漆喰の壁や塀には鉄砲や矢を射かける狭間(さま)が約500個も開けられ、迫ってきた敵の頭上に石を落とすための「石落とし」と呼ばれる窓も各所に設けられています。
城には見張りと射撃の高台としての機能を持った櫓が96棟もあったと言われています。
天守や櫓などを支える石垣は、わが国の城郭特有の「扇の勾配」と言われる美しい曲線を描いており、勾配は上にいくほど石垣が垂直になり、敵兵がよじ登れないように防備の役目を果たしています。
美しさを誇る白漆喰塗りも、優れた耐火性によって延焼を防ぐという効果があります。



















大天守の内部には火縄銃や火薬、槍などを掛けておく武具掛や、攻め入った敵に不意打ちを掛ける兵を忍ばせておく武者隠し、武器や食料を保管しておく内室と言った戦闘設備が整えられています。
このようにさまざまな仕掛けを持つ姫路城は、難攻不落の要塞でもありました。

池田氏の後、藩主は本多氏、奥平松平家氏、越前松平氏、榊原氏、酒井氏と変わりましたが、幸い戦いの場とはなりませんでした。幕末期、姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属したため朝敵とされ、姫路城は官軍に包囲されましたが、城を明け渡して官軍と和睦し、戦いは回避され、今日の姫路城が残ることになりました。


明治初期には、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊されたり、失火で備前丸を焼失したりましたが、その後保存の動きが進み、長期にわたる昭和の大修理を経て、現在の姿になっています。
さらに来年からは、耐震補強も含めた平成の大修理が始まる予定です。
2008-06-20 20:45 | 記事へ | コメント(0) |
| 国宝めぐり / 戦国〜江戸時代 |
2008年06月14日(土)
住吉神社


大阪の住吉大社を総本社とし、日本全国に約600社ある住吉神社のひとつ、明石市魚住の住吉神社は、初めて住吉大神が祀られた地ということで、「住吉神社の発祥の地」を称しています。

神社は海に向かって建ち、山門、楼門、拝殿、本殿が一直線に並ぶ東播磨地方の典型的様式を備えています。

本殿の南にある能舞台は江戸時代に当時の藩主が建てたもので、この時代に能が地方まで伝播したことを示す資料となっています。明石市では唯一残る能舞台で、現在でも毎年5月1日には能が奉納されています。






2008-06-14 16:05 | 記事へ | コメント(0) |
| 戦国〜江戸時代 |
2008年06月07日(土)
時の道

明治21年、日本標準時が定められ、東経135度の子午線上で太陽が真南に来た時を12時とすることになりました。明石は東経135度の子午線が通る町です。

JR明石駅の北側にある明石城から子午線上に建てられた明石市立天文科学館までの約2kmのプロムナードは「時の道」と呼ばれ、明石城月照寺柿本神社などが並ぶ歴史の散歩道ともなっています。

                        (天文科学館前に咲くトケイソウ)





人丸前駅プラットホームと天文科学館の高塔の標識         天文科学館北にあるトンボの標識(子午線標識)

 
2008-06-07 20:05 | 記事へ | コメント(2) |
| 幕末〜明治以降 |
2008年06月01日(日)
忠度塚
一ノ谷の戦いでは、平敦盛通盛、業盛知章、教経など多くの平家の武将が討ち死にしましたが、清盛の末弟忠度もその1人です。

忠度はすぐれた歌人でもあり、藤原俊成に師事していました。平家物語では、都落ちの途中で京都に引き返し、自身の歌を書いた巻物を俊成に託したと語られています。

明石市天文町(旧・忠度町)の住宅地の路地のなかに、この地で討たれた平忠度を祀る忠度塚があり、近くには忠度の腕を埋めたと伝わる腕塚神社も建てられています。

俊成は『千載集』編纂の際、朝敵となった忠度の名を憚り、詠み人知らずとして一首を掲載しました。

さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな

   
2008-06-01 15:50 | 記事へ | コメント(0) |
| 平家物語とその周辺 |
2008年05月29日(木)
一言寺


一言寺は阿波内侍が出家後、清水寺の観音のお告げによってを建立したと伝えられています。 

本尊の千手観音に一心に祈れば、願いが叶うことから「一言寺」の名が起こったと言われ、明治に醍醐寺の塔頭・金剛王院が移って来た後も、地元では一言寺さんと呼ばれています。

阿波内侍は、藤原信西の娘で、「平家物語」では後白河法皇が寂光院を訪ねた大原御幸の場面で登場し、大納言佐局とともに建礼門院の最期を看取ったとされています。

一言寺の山門を入ってすぐ右手には、京都市の天然記念物となっている樹齢400年のヤマモモの巨木があり、また、紫陽花の寺としても知られています。


2008-05-29 22:20 | 記事へ | コメント(0) |
| 平家物語とその周辺 |
2008年05月25日(日)
平重衡の墓

法界寺近くの住宅街の中に、平重衡の墓と伝えられる石塔があります。

平重衡は清盛の五男で、墨俣合戦・備中水島の合戦で勝利して活躍しましたが、一ノ谷の戦いで捕われ、鎌倉へ護送されました。平家滅亡後、前年の南都焼打の責を問われ、南都衆徒の要求で、鎌倉から奈良に引渡されることになりました。

重衡の北ノ方輔子は安徳天皇の乳母で大納言佐局と呼ばれ、平家とともに都落ちしました。壇ノ浦の戦いで入水したものの助け上げられ、後に日野に住む姉の元に身を寄せていました。

重衡は奈良に送られる途中に、日野を通りかかり、警護の武士の情けで、輔子と別れを惜しんだと言われ、その様子は平家物語の中でも最も感動的な場面です。

重衡は木津河原において斬首され、その首は般若寺の門前にさらされましたが、遺骸は輔子が引き取り、後に請い受けた首とともに法界寺で荼毘に付して、高野山に埋葬し、墓をこの地に建てたと伝えられています。

輔子はその後、出家して重衡の菩提を弔い、大原寂光院の建礼門院徳子に仕え、建礼門院の最期を看取りました。


(平重衡とらわれの松跡: 神戸市須磨区)


2008-05-25 13:20 | 記事へ | コメント(2) |
| 平家物語とその周辺 |
2008年05月21日(水)
法界寺
京都市伏見区日野にある法界寺は、1051年日野家の菩提寺として建立されました。日野資業(すけなり)が薬師堂を建立し、薬師如来像を造り、胎内に最澄作という先祖伝来の薬師小仏を納めて安置したのがはじまりと言われています。


本堂は薬師堂(重文)で、秘仏の薬師如来像に胎内仏が収められていることから、「日野薬師」「乳薬師」とも呼ばれ、安産や授乳にご利益があると伝えられています。

五間五面の檜皮葺、宝形造の阿弥陀堂は、藤原時代に起こった浄土教の流行や末法思想等の影響で各地に建てられた典型的な阿弥陀堂建築の一つで、国宝となっています。


阿弥陀堂内には、定朝作と伝えられる丈六の国宝・阿弥陀如来像が安置されています。流れるような薄い衣をまとった円満豊麗な姿は、宇治平等院鳳凰堂の本尊に酷似し、この時代の代表的阿弥陀仏です。
内陣の阿弥陀如来を取り巻く長押の上の漆喰の壁間には天人壁画(重文)が描かれており(堂内が暗くて見えにくいですが)、法隆寺金堂壁画焼失後、日本最古のもので、絵画史上貴重な存在です。

日野の地は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の誕生の地でもあり、両親とともに阿弥陀堂に通い、この阿弥陀如来像に手を合わせたと言われています。

2008-05-21 23:25 | 記事へ | コメント(2) |
| 奈良〜平安時代 / 国宝めぐり |
前へ 次へ